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〒564-0062 吹田市垂水町1-24-6
このお歌はこの地を詠んだものとして、平成のご即位記念に氏子の皆さまのご奉賛で建立しました。
このお歌の歌碑は、実は全国にあります。
といいますのも、垂水という地名も垂水神社もあちこちにあるからです。
(鹿児島県、岡山県、兵庫県、島根県などです)
もともと垂水とは字の通り、水が垂れるところですから、日本中にそういう場所はあるわけです。
そして垂水があるから、その土地を垂水と名付けることも当然といえば当然なのです。
ただ、この皇子のお歌がどこの垂水を詠まれたものか。
これには諸説あります。
特定の地名ではなく、普通名称としての瀧の意味で用いられたという説もあります。
では、なぜ垂水神社では、このお歌を当地で詠まれたと考えているのでしょうか。
その理由は3つあります。
@実は万葉集には垂水を使った歌がほかにもあります。
下の二首です。
このうち、1142の歌は、1140、1141の二首とともに攝津作として載っています。
1140:しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿はなくて
〜志長鳥 居名野乎来者 有間山 夕霧立 宿者無而
1141:武庫川の水脈を早みと赤駒の足掻くたぎちに濡れにけるかも
〜武庫河 水尾急嘉 赤駒 足何久激 沾祁流鴨
攝津は旧国名で、現在表記では摂津ですが、大阪府北部と兵庫県南東部の地域です。
1140の歌には、猪名野と有馬という地名が入り、1141には武庫川という地名が入っています。
ですから1142にも地名が入っていると思われます。
とすると、垂水が地名ということになります。
そして摂津で垂水という地名は当地だけなのです。
神戸市垂水区の所属する場所は、旧国名では播磨となります。
摂津は畿内で、播磨は山陽道です。
延喜式でも、当社は摂津の垂水神社とあり、神戸市の垂水区にある神社は播磨の海神社となっています。
ですからこの1142の歌は当地で詠まれたものとほぼ確定できるのです。
垂水の水が命を長らえ幸せになるという言い伝えがすでにあったことがうかがえると同時に、万葉集の時代には、垂水を摂津の地名と考えていたことがわかります。ですから、志貴皇子の歌も同様のものと考えられるのです。
A志貴皇子の父君は天智天皇です。
天智天皇といえば、大化の改新の立役者であります。
そして大化の改新で即位されたのが、垂水神社をお祭りせよと命ぜられた孝徳天皇です。
したがって、垂水神社には当時皇太子であり、実質的な政権担当者であった天智天皇も大きくかかわっておられたのは間違いありません。
時の都は難波長柄豊崎宮でした。
こちらも摂津の国にあります。
この宮が旱魃で困ったときに、垂水から水をお届けしました。
このときの功績で、当地の領主であった阿利真公は垂水公という名を賜り、垂水神社をお祭りするよう命ぜられます。
実際、地図で見ますと、当社は難波宮のほぼ真北にあたります。
直線距離で約10q、歩いて3時間くらいです。
昭和50年代までは、神社境内から大阪城天守閣が見えました。
古代なら難波宮から千里丘陵がのぞめたでしょう。
その崖を勢いよく落ちる垂水も見えたかもしれません。
この時代の皇族や貴族にとって垂水の水は命綱ともなった大切なものでした。垂水のことも、それを祭る神社のこともよく知られていたと思われるのです。