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1360年の歴史と広大な鎮守の森、そして万葉集に詠われた垂水の滝。

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〒564-0062 吹田市垂水町1-24-6

由緒History

弥生時代

施設写真

垂水神社の本殿の後方やや西側の境内地には弥生時代の住居跡があります。昭和48年から51年に吹田市教育委員会と関西大学により発掘され、竪穴式住居跡(たてあなしきじゅうきょあと)掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)焼土坑(しょうどこう)甕棺墓(かめかんぼ)などが確認されております。典型的な高地性集落で、この地が、2000年前から人々が暮らす場所であったことがわかります。※現在は埋め戻されています。


飛鳥時代〜奈良時代

機器写真

孝徳天皇(ご在位645年〜654年)の御代、この地の領主である阿利真公(ありまのきみご祭神である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫)が、干ばつに苦しむ難波長柄豊碕宮に、懸け樋を作って当地から水を送り、その功績をたたえられ、「垂水公」(たるみのきみ)の姓を賜り、垂水神社を創始しました。 このことは 『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の右京皇別の項に記載されております。(写真は垂水の滝)

                 
  「豊城入彦命四世孫賀表乃真稚命之後也。六世孫阿利真公。謚孝徳天皇御世。天下旱魃。河井涸絶。于時阿利真公。造作高樋。以垂水岡基之水。令通宮内。供奉御膳。天皇美其功。使賜垂水公姓。掌垂水神社也」(新撰姓氏録)

これを意訳しますと、次のようになります。

「豊城入彦命の数世の御孫阿利真公、孝徳天皇の御宇、天下旱魃し河井涸絶せるに際し高樋をつくりて垂水岡基の水を長柄豊崎宮に通じ御膳に供すれば天皇その功を賞し垂水公の姓を賜いて本社を掌らしめ給えり」


『新撰姓氏録』とは、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑のことです 。 おそらくこの時より以前からこの地では祖先神である豊城入彦命を祀る何らかのお社があり、また当然ながら都に送れるほどの水量のある滝があり、人々によって神聖な空間として大切にされていたのでしょう。また千里丘陵の南端に位置する当社は、上町台地に位置する難波宮とはほぼ南北の直線上にあって、距離にして約15qですので、難波宮から滝が見えていたとも考えられます。参照→垂水の滝と万葉の歌碑のページ


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平安時代

機器写真祈雨の神としてしばしば朝廷からの奉幣にあずかりました。
当時の雨乞い神事に奉幣を受ける神社は、他に京都の貴船社・松尾社・大阪の住吉社などでした。
祈雨のたびに朝廷から神階が授けられ、当社の社格は従五位下から従四位下まで上がっていきました。
平城天皇の時、封戸の寄進を受けて、ご神領を賜りました。 醍醐天皇のとき作られた延喜式では「名神大社」とされ、臨時祭祀の中の祈雨を司る神社とされました。
 さらに天皇の即位儀礼である大嘗祭にさきがけておこなわれたといわれる「八十嶋祭(やそしまさい)」において、朝廷より奉幣があり、祭料布が下賜されていました。これを証明するかのように、近年、神崎川畔の五反島遺跡から八十嶋祭に使用されたと思われる古鏡(吹田市立博物館蔵)が発見されています。


鎌倉時代〜室町時代〜戦国時代

施設写真 桓武天皇の皇女、布勢内親王の領地として寄進された当地は、やがて垂水庄、垂水牧として、東寺や春日大社、あるいは摂関家の有力な荘園となっていきます。そのように領主は変わっても、この地に暮らす人々からの信仰は変わらず、15世紀初頭ごろの文書には当社の「燈油」や「神楽(かぐら)のための神領田の存在が記録され、これは戦国時代まで続いていたと文書に記されています。


江戸時代

施設写真 天和3(1683)年、氏子・崇敬者の熱意で本殿の造営が、大坂の宮大工によって行われました。当時の氏子と宮大工が取り交わした証文が神社に伝わっています。この社殿には皇室の菊花紋と徳川家の葵の紋が飾られていました。
一の鳥居の創建もこの頃(元禄5年以前…1692年以前)と思われます。
現在社務所西側にある手水舎は、明治時代までは拝殿前にあったもので、こちらは元禄時代(1688〜1734年)に奉納されたと刻まれています。
不動社参道の小滝の川にかかる石橋は御滝橋と言い、垂水村の大工幸助が延享3年(1746年)に奉納したと刻まれています。
現在も夕刻になると灯りがともる参道北端の燈籠は明和元年(1764年)に建てられました。
拝殿前の一対の狛犬は享和2年(1802年)に垂水村から大坂の薬種商吉野家に養子となった吉野五運が実家の一族とともに奉納しました。台座には雷の如き眼光で宮を衛ると書かれています。
同じく19世紀初頭には、京都の門跡寺院、宝境寺宮から「垂水大明神」の掛け軸を頂戴し、これを元に扁額を二面作成しています。一面は神社に伝わり、もう一面はいつ頃からか垂水の旧家に保存されていましたが、平成23年に神社に返納されました。領主森氏はご神鏡を奉納しています。  
このように地域の崇敬は江戸時代を通して厚いものがありました。 
また、1796年〜1798年に刊行された摂津名所図会には、垂水の滝について「清冷甘味、諸病を治す」と紹介されています。


明治〜現代

施設写真明治になって社格は「郷社」となりました。これは「無格社」、「村社」の上に位置するものです。
 廃仏毀釈によって西側に隣接していた栽松寺が無くなり、かわって不動明王をお祭りする不動社が建立されました。ここでは今も護摩焚き神事が行われています。
 昭和49(1974)年、古くなった社殿を建て替えるため、氏子によって造営奉賛委員会が設立され、本殿、拝殿の造営がなり、盛大に正遷宮の祭典が行われました。
 その後も、境内整備は続き、末社の造営や擁壁工事などが行われ、万葉歌碑も建てられました。氏子・崇敬者が守ってきた鎮守の杜は、吹田風物百選や大阪ミュージアムなどにも登録され、現代にも大切にされるものとして位置づけられています。
 そのような中で平成23年に境内東側の森を民間から買い取った不動産業者が、本殿を見下ろすマンション建設を計画しました。美しい森を子孫に残したいという氏子・崇敬者が【垂水の森を守る会】を結成し、13000余人の署名と奉賛金を集めて、3年にわたる反対運動を展開しました。そしてついに、業者から神社が当該森を買い取るという形で解決にいたりました。誇り高い垂水の氏子・崇敬者の思いは石碑に刻んで未来に語り継がれます。